牛ほほ肉の赤ワイン煮込み〜人参とマンゴーのソース〜

時折、「私は何故ここに居るのだろう?」と考える。ここというのは、具体的な場所の事では無く、大きな言葉で言えば社会、世界、この世の事だ。何故私はこの世界で生きているのだろう。何のために?それはふとした瞬間。ある時は自転車を漕いでいるし、ある時は改札を出ている、またある時は一心不乱に頭を洗っている。そして考え始めると止まらなくなる。止まらないのに一向に答えは出ない。後々思い返すと何とも無駄な時間だ。答えは出ないし考えたところで仕方がないのだから。

しかし簡単に答えが出る瞬間がある。美味しいものを食べている時!なんとも単純!

会社の研修帰り、私は1人で上野の街をブラブラしていた。ここ1ヶ月ほどは特に憂鬱な日々が続いていて、人間なんか嫌いだい。とか思ったり、漠然とした不安が胸の内を渦巻いていた。思いっ切り歌ってやる、と思ってカラオケに入った。歌う前は素晴らしい案のように思えてウキウキしていたのに、1時間もしないうちにまた憂鬱がやってきた。やる気なく歌う私のあの姿を、曲を作った者たちに見られたら怒られそうだ。

「2時間で!」と意気揚々と言ったにもかかわらず1時間で店を出た。本でも読みながら美味しいお酒とおつまみ…と漠然としたイメージを思い浮かべつつアメ横をぼーっと歩き回る。JR上野駅を出た道路の向かい側で、小洒落たレストランを発見した。美味しいワインとロティサリーチキンが名物!と書いてある。価格帯は目を見張るほどでは無いがそこそこ高い。暫くメニューの前をウロウロしたが、意を決して入ることにした。たまにはよかろう。

17時前という時間のせいもあって、店内は落ち着いている。淡いブルーのシャツに黒のスキニー、白いサロンエプロンを巻いた男性店員が、窓際の席に案内してくれる。まずモスコミュールを注文し、レイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」の続きを読み始めた。村上春樹が訳すとそれは村上春樹の作品になる。本人的には不本意だろうが、私はそういうところが結構好きだったりする。ロング・グッドバイは特にそうだ。むしろ元から村上春樹の本なのでは?とも思う。チャンドラーさん、すみません。でも面白く読ませてもらっています。

モスコミュールが来た。店員にお礼を言って1口目。カラオケで疲れた喉には嬉しい1杯だ。自分のチョイスに自画自賛、満足しながら読書を続けていると、注文した揚げカリフラワーのアンチョビソースが届く。なぜか鰹節の味がしたが、香ばしく酒のあてにはぴったり。お酒はどんどん進み、次に白桃のスパークリングワインを飲んだ。ひたすら甘いのだと思っていたが桃のほろ苦さまで感じられて想像以上の美味しさだった。気に入ってもう一杯。そろそろメイン料理を…と思いメニューをじっくりと眺める。悩んだ末に赤ワインと、牛ほほ肉のワイン煮込みを注文した。牛肉には赤ワイン!少ないお酒の知識を絞り出して生み出した結論である。(誰でも知っていることではあるが。)

たっぷりと時間をかけて、料理が運ばれてきた。料理と一緒に、と頼んでいたので同じタイミングで赤ワインも到着する。マッシュポテトが添えられた、普通の牛肉のワイン煮込みのように見える。しかしナイフを入れると、毛糸玉のように肉が解けた。私の胸は高鳴る。これは美味しいに違いない。一口食べて確信に変わる、ワインを続けて飲む。思わず、「幸せ…」と声に出して呟いた。隣のテーブルにはカップルがいる。もしかしたら聞こえていたかもしれない。スーツ姿の女が1人で牛肉と赤ワインを前に幸せをかみ締めている姿は、カップルからすればさぞかし滑稽だっただろう。いいさ、笑えばいい。でもこのワイン煮を食べたら私の気持ちが分かるはずだ。今私は、この瞬間の為に生きてきたのだと本気でそう思っている。人間にはこうやってじっくり美味しいものと向き合う時間が必要なのだ。私は美味しい赤ワインを飲みながら美味しい肉を食べるためにこの世界に存在している。素晴らしい結論のように思えた。

店を出てからも高揚はおさまらなかった。帰り道にそのまま、金曜日のゴッホ展のチケットを予約した。昼前に起きて、東京都美術館ゴッホの作品を見て、またあの店で食事をしよう。今度は名物のロティサリーチキンとやらを食べてやろう。ワインは白かな。お腹を空かせていかなきゃ。

しつこい様だが、私は美味しいものを食べるためにこの世に生まれてきた。これだけは誰にも否定し得ないのである。