静寂

あれは空気がどこまでもキンと冷たく澄んでいた冬の日だった。その日は昨晩に珍しく晩酌をしていなくて、布団の中でお互いを暖め合いながら日付を超える前に眠ってしまっていた。そして早く目が覚めてしまったのだ。元々長い時間眠るのは僕ら二人とも好きではなかった。だからと言っていつもすることがあったり、いつも話すことがあった訳ではなかった。ただ黙って、一緒にいることが好きだった。

そんなわけでその日はまだ太陽が半分も顔を出していない時間に二人ともすっかり目が覚めてしまった。いつもの僕らであったら僕が珈琲を入れて、彼女はゆるゆると着替えをして髪を整えて、そのあと太陽が完全に冬の空に登り終えるまで珈琲を片手に、もう片方の手にはお互いの指を絡ませてぼんやりと寄り添っていたはずだ。どうでもいいことかも知れないけど、彼女はたとえ一日中用事がなくたって洋服を着替えて髪を整える。「そうしないと何となく落ち着かないのよ」せっかく家に居るんだから気を遣うことはないと僕が言うと彼女はそう答えた。

とにかくその日は違った。布団の中で顔を近づけ朝の挨拶を交わしたあと、彼女は今から海に行こうと言った。彼女は基本穏やかで僕の意見を笑顔で受け入れてくれるタイプだった。夕飯のメニューや、合わせるワイン、観る映画は大抵僕が決めていた。しかしたまに、ごくたまに、突拍子もないことを言う女性でもあった。それがその日だったわけだ。こうなると彼女はなかなか譲らない。それに突拍子もないことだって、たまにはいいかもしれない。彼女の目を見つめているとそんな気分になるのだから不思議だ。僕のダウンジャケットのポケットに、繋いだままの手を入れて2人で歩き始めた。僕らのアパートから海岸までは歩いて10分程の距離なのだ。この住居も数少ない彼女の決断だった。そう考えると僕がいつも彼女を引っ張っていってるように見えて、僕らにとって大事な事は実は彼女によって決められてきているのかもしれない。

とにかく僕らは口数も少なく海にたどり着いた。真冬なだけあって風は驚くほど冷たい。もちろん人は一人もいなくて、聞こえるのは波の音と風の音、彼女が僕と繋いでいない方の手をに息を吹きかけているハーっという音だけ。まるでこの世界に二人きりみたいだ。僕がそう思った時彼女が言った。

「何だかこのまま世界が終わりそうね。」

「怖くなったかい?」

「少しね。」

「少しなんだ?」

「うん、この間借りた映画は1本残っているし、夢みたいに美味しかったワインはボトルに半分もある。ピクルスも一昨日の夜漬けたばかりよ。でもそのくらいかしら、思い残してることと言えば。」

予想外の返事に僕は驚いたあと、ふふっと笑ってしまった。彼女はほんとに美味しいお酒と美味しい食べものには目がないんだ。

「君の世界はお酒と食べ物でできているね。」

それまで海を見つめながら話していた彼女が急に僕を見た。彼女の大きくはないが綺麗な形の目にドキリとする。

「お酒と食べ物と、あなた。それがあれば他に何も要らないでしょう?」

彼女はたまに突拍子も無いことを言う。