冬。オリオン座。好きな人。

どんなに疲れてても眠くても、毎晩1時間は本を読むことにしている。「働く為に生きるような大人にはなりたくないなぁ」なんて言っていた僕も、大学を卒業して半年たった今、そんな大人になっていた。

それを否定するために、本を読んでいた。朝9時過ぎに出社して、日付を超えてから帰るような生活が続くと出掛けることも出来ないから、読書と音楽ぐらいしか娯楽が思いつかなかった。主に村上春樹を読んで、ビートルズを聴いていた。そうすると自分が少し高尚な人間で、充実した生活を送っている大人のような気がしたけど、毎日コンビニの弁当を食べて1箱は煙草を吸うもんだから、高尚とはなんだろうと常々考える。

相変わらず次の休みにする事は決まっていなかった。恐ろしく友達が少ない僕は、休みの日にポンっと予定ができるようなことはそうそう無い。休みの日数に反比例して業務は増えていたし、昼まで寝てから出社してやろうかななんて絶望的な予定を立ててすらいた。

木曜朝のゴミ収集に向けて水曜の深夜にゴミを出すのが日課だった。灰皿に溜まった煙草の吸殻をゴミ袋に突っ込んで、ゴミ捨て場に放り込んだ。体と瞼が重たい。このまま布団に入れば5分も経たずに寝れるだろう。11月になり、外は冬の匂いがした。この時期の匂いを嗅ぐと僕は人生で唯一、世界の何よりも大事だと思えた彼女のことを思い出す。大学の授業を平気でサボって、彼女に会うために歩いた明け方の事を思い出す。

彼女とは本の趣味も音楽の好みも好きな店の雰囲気も同じだった。デートの度にやたら小洒落た店に連れていかれるもんだから、彼女とは大衆居酒屋やチェーンのファミレスに行く時の方がワクワクした。彼女はいつも僕の食べたいものを聞いてきた。僕が食べたいものを2つ言うと、それを両方頼んで分け合って食べた。それが彼女なりの愛情表現であり、分かっていたから僕も遠慮はしなかった。遠慮しないことが彼女の愛を受け止める方法だった。だから、結局彼女が本当に好きな食べ物は分からずじまいだった。キノコも生ハムもハイネケンもしゃぶしゃぶも、彼女が好きだと思っていたけどよくよく思い返せば全部僕の好きな物だった。

後にも先にもあんなに人を好きになったのは彼女だけだ。他に大切にするべきものは何一つないと心の底から信じていたくらいに彼女が好きだった。それは幸せなだけじゃなかったし痛みを伴うこともある感情だったけど、今となってはあの時の自分が眩しいくらいに思える。

彼女が風邪を引けば片道1000円の交通費も睡眠時間も惜しまず毎日看病に行った。彼女の休みに合わせて講義をサボって会いに行った。彼女と潜ったベッドの中で教授に「具合が悪いので休みます」なんてメールを息をするように送った。そうして欲しいなんて1度も言われなかったし見返りも要らなかった。当たり前のことであるように感じていた。

彼女と別れて1年が経とうとしている社会人1年目の冬。今はもう会いたいとか好きとかは思わないけど、あの時の感情は尊いと感じる。あのくらい、何もかも投げ出して誰かを愛したいと思える日が来ることはもう無いんじゃないかなと思う。

今夜も布団の中で、タバコを吸いながら黙々と本を読んでいる。今日も物語の中では誰かが誰かを愛したり憎んだり、別れたり悲しんだりしている。僕が喪ってしまった感情を、本を読めば思い出せる気がしてひたすらにページを捲った。ノルウェイの森の中で、緑という女性が愛について語る印象的なシーンがあって、僕はそれが大好きだ。

"

「私が求めているのは単なるわがままな の。完璧なわがまま。たとえば今私があなたに向って苺のショート・ケーキが食べたいって言うわね、するとあなたは何もかも放りだして走ってそれを買いに行くのよ。そしてはあはあ言いな がら帰ってきて『はいミドリ、苺のショート・ケーキだよ』ってさしだすでしょ、すると私は 『ふん、こんなのもう食べたくなくなっちゃったわよ』って言ってそれを窓からぽいと放り投げ るの。私が求めているのはそういうものなの」
「そんなの愛とは何の関係もないような気がするけどな」と僕はいささか愕然として言った。
「あるわよ。あなたが知らないだけよ」と緑は言った。「女の子にはね、そういうのがものすご く大切なときがあるのよ」
「苺のショート・ケーキを窓から放り投げることが?」
「そうよ。私は相手の男の人にこう言ってほしいのよ。『わかったよ、ミドリ。僕がわるかった。 君が苺のショート・ケーキを食べたくなくなることくらい推察するべきだった。僕はロバのウンコみたいに馬鹿で無神経だった。おわびにもう一度何かべつのものを買いに行ってきてあげよう。何がいい? チョコレート・ムース、それともチーズ・ケーキ?』
「するとどうなる?」
「私、そうしてもらったぶんきちんと相手を愛するの」
「ずいぶん理不尽な話みたいに思えるけどな」
「でも私にとってそれが愛なのよ。誰も理解してくれないけれど」

"

いささか我儘だし、読む人が読めば苛立ちさえるすかもしれない。でも僕は苛立ちという感情は愛に似てると思う。人を愛するってことは、痛みや苛立ちを伴う。理解してくれない相手に対しても、そんな感情を抱く自分に対してもだ。その苛立ちも、今の僕には愛おしい。誰かを愛して、傷ついて、怒って悲しんで。そんな感情が欲しいと心底願っている。

洗濯機が音を立てて止まった。明日の仕事に行くための服を、干さなければいけない。溜息をつきながら身体を起こし、ビートルズのプレイリストを再生しながら洗濯物を干す。こんな僕が生きていくためにも手間がかかる。どうせお金も時間もかかるなら、僕だけの為じゃなくて好きな人の為に使いたい。周りが見えないほど彼女を愛して、彼女の為に僕を擦切れるまで使いたいと思ったあの頃のように。